2010年6月23日水曜日

私の戦争体験――家族から聞く戦争体験①

N.K 1979年長崎生まれ。
大学、大学院修士修了後、高校英語教師を経て、現在雑誌編集者。

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三世。

日系三世、在日三世、ルパン三世など、
世の中には、いろいろな三世があるものだが、
私に何か「三世」的なものがあるとすれば、
「被爆三世」ということになるだろう。

こんなことは長崎では誰も言わない。
これはタブー、差別であるというよりも、
何も言わずとも、語らずとも、
長崎人なら大体誰もが「被爆二世」「被爆三世」であるからだ。
長崎の人というのは、「沈黙の民」であることが多い。
うちもまたそのような環境だった。

私の祖父も祖母も長崎生まれで、
祖父も祖母も戦争と原爆を経験している。

祖父も祖母も代々カトリックの家筋だった。
有事の際、国家はドサクサに紛れて、
不穏分子を抹殺しようとする。
左翼活動家、国家反逆者、芸術家などとともに、
鬼畜米英の門徒たる耶蘇教徒もその対象である。
その例に漏れず、カトリックの集落に生まれ育った祖父も、
アジア太平洋戦争中、激戦区フィリピンへ招集される。

そして、負傷し帰国。

しばらくの療養の後、
大日本帝国陸軍・関東軍防疫給水部本部に配属される。
そう、悪名高き731部隊である。
祖父は決してインテリ医師ではない。
田舎大工が末端の工作員として配属されたのだ。

731部隊……。
細菌戦・化学戦に用いる兵器を研究し、
時には「マルタ」(中国人やロシア人の捕虜)を使った
人体実験をしたとも聞く。
この部隊のことを本で読む度に戦慄が走る。
あの穏やかで寡黙な祖父がそんなところにいたのか、と。

1945年7月、
その前線で勤務した祖父は肺を悪くし再び帰国。
細菌戦で使う兵器の研究に携わっていたのだから当然である。

粗末な名ばかりの貨物船で命からがら大阪に帰着し、
そこから遙かなる故郷を目指し、汽車で西へ西へ。

そしてようやく辿りついた故地で祖父を待っていたのは、
Fatman(太っちょ)と呼ばれる原子爆弾の炸裂だった。

しかし、祖父は生きた。
翌年、祖母と結婚。四人目の子として母が生まれる。
そして、昨年3月、息を引き取った。享年87歳。

これら一切のことを祖父は語らなかった。
生涯「沈黙の民」であり続けた。

子どもらのためにせっせと働いた。
そして、敵軍の宗徒であることをやめなかった。

この端緒なしに、
私は戦争について語ることはできないと思う。

(つづく)

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