関東近郊で行われている原爆展を発見しました。
松戸市立博物館で行われている原爆展です。
たまたまそこに行ったらやっていて、とても驚きました。
期間は、2010年6月26日(土)から7月11日(日)で、
9:30~17:00(入館は16:30まで)。
割と短いです。
↓(参照)
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/siminkensyo/heiwatosi-sengen/genbakuten.html
http://www.city.matsudo.chiba.jp/m_muse/(博物館)
http://www.city.matsudo.chiba.jp/m_muse/guide/guide_map.html(地図)
こちらは、松戸市立博物館の企画ではなく、
松戸市の主催です。松戸市は世界平和都市ということで、
宣言25年記念事業としての実施のようです。企画趣旨をコピペしておきます。
展示品は主に長崎のものが多かったですが、
被爆した展示品は無言のまま多くのことを語っていました。
雰囲気は長崎原爆資料館そのもの。
展示も、11時2分で止まったあの有名な柱時計や、
Steven Okazakiの『ヒロシマナガサキ』にも出演していた、
被爆者の証言VTRなどもあり、
まさにミニ長崎原爆資料館といった感じです。
7月11日には、長崎被爆体験講話会があるようです。
こちらを聴きに再度行きたいくらいです。
長崎まで行くのは大変ですから、
関心がある人はぜひ行ってみてください。
「世界平和都市」の松戸市に期待です。
私事ですが、松戸は、
私が予備校生の頃、予備校の寮があって住んだ場所です。
郷里の長崎を離れ最初に住んだ場所が松戸なのです。
そんな松戸市が長崎市と共催で、
原爆の展示を行うというのは不思議な縁を感じます。
その帰り、寮があった北松戸にも行ってみましたが、
もう予備校の寮ではなく、名前が変わっていました。
当時よく行っていた定食屋やラーメン屋も、本屋も、
すべて潰れていました。
あらためて12年という時の長さを痛感。
上京して一回りが経ちました。
思えばこの10数年、新自由主義の波が、
色々なものを流していったのだと思わされました。
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松戸市では、戦後65年・松戸市世界平和都市宣言25周年記念事業として「原爆展」を開催します。
原爆被害のあり様を伝える原爆被災物品や、広島・長崎の原爆被災写真等を展示するほか、長崎市から被爆体験者を招いての被爆体験講話会などを行います。
戦後65年、戦争体験者が少なくなっている現在、当時の証言を直接聞くことのできる世代は、真実をしっかりと引き継いで、次の世代に継承していかなければいけません。
戦争とは一体何だったのか、戦争や核兵器の恐ろしさを知るとともに、平和の大切さや命の尊さについて見つめ直していただくため、この節目の年に原爆展を実施します。
原爆被災資料の展示
原爆被災資料の展示長崎市に原爆が投下された11時2分を指して止まっている柱時計のほか、強烈な熱線で溶けたビンや犠牲者の遺留品など、長崎原爆資料館所蔵の資料約50点を展示します。
また、原爆の熱線により表面が発泡した瓦に直接触ることができるタッチコーナーも設置します。
-----------------------
世界平和都市宣言
我が国は、世界で唯一の被爆国である。
何人も平和を愛し、平和への努力を続け、常に
平和に暮らせるよう均しく希求しているところである。
しかし、現下の国際情勢は、緊張化の方向に進み
市民に不安感を与えている。
かかる状況に鑑み、松戸市は日本国憲法の基本
理念である平和精神にのっとり、平和の維持に努め、
併せて非核三原則を遵守し、あらゆる核兵器の廃絶と
世界の恒久平和の達成を念願し、世界平和都市を
ここに宣言する。
昭和60年3月4日 松戸市
2010年6月27日日曜日
2010年6月23日水曜日
みらい世紀ブラジル
7/10(金)~16(日)、
横浜・黄金町ミニシアター「ジャック&ベティ」で、
敬愛するドキュメンタリー作家・岡村淳さんの映画上映会、
「第2回 ラテンフィルムフェスタ みらい世紀ブラジル」が開催されます。
↓
http://www.jackandbetty.net/miraiseikibrazil.html
岡村さんは、
日本テレビ「すばらしい世界旅行」のディレクターなどをされた後、
フリーになり、自らブラジルに移住し、
日系ブラジル移民などの作品を撮り続けたドキュメンタリー作家です。
7/11(日)19:20~、
「赤い大地の仲間たち――フマニタス25年の歩み」の回の後のトークに、
司会・トーク役で出演することになりました。
こういったのも編集者の仕事ですが、これは完全に私人としての仕事。
私は口下手で、あんまりこういった役に向きませんが、
だだスベりっぷりを観るのも一興かもしれません。
招待券をいただいておりますので、ご関心のある方はご連絡ください。
こちらは、
戦後ブラジルにわたり、ハンセン病者のための施設「フマニタス」(人間愛)を
設立した日本人神父・佐々木治夫さんを撮った作品。
ここには、南米で起こった思想、ムーヴメントである
「解放の神学」の影響が多く見られており、
このトークは、
キリスト教のことをほとんど知らない観衆に、
解放の神学についてわかりやすくお話しするものです。
私はもっぱら聞き役、素朴な質問役に徹し、
ほとんどはフェリスの大倉一郎さんが語ります。
横浜・黄金町ミニシアター「ジャック&ベティ」で、
敬愛するドキュメンタリー作家・岡村淳さんの映画上映会、
「第2回 ラテンフィルムフェスタ みらい世紀ブラジル」が開催されます。
↓
http://www.jackandbetty.net/miraiseikibrazil.html
岡村さんは、
日本テレビ「すばらしい世界旅行」のディレクターなどをされた後、
フリーになり、自らブラジルに移住し、
日系ブラジル移民などの作品を撮り続けたドキュメンタリー作家です。
7/11(日)19:20~、
「赤い大地の仲間たち――フマニタス25年の歩み」の回の後のトークに、
司会・トーク役で出演することになりました。
こういったのも編集者の仕事ですが、これは完全に私人としての仕事。
私は口下手で、あんまりこういった役に向きませんが、
だだスベりっぷりを観るのも一興かもしれません。
招待券をいただいておりますので、ご関心のある方はご連絡ください。
こちらは、
戦後ブラジルにわたり、ハンセン病者のための施設「フマニタス」(人間愛)を
設立した日本人神父・佐々木治夫さんを撮った作品。
ここには、南米で起こった思想、ムーヴメントである
「解放の神学」の影響が多く見られており、
このトークは、
キリスト教のことをほとんど知らない観衆に、
解放の神学についてわかりやすくお話しするものです。
私はもっぱら聞き役、素朴な質問役に徹し、
ほとんどはフェリスの大倉一郎さんが語ります。
私の戦争体験――家族から聞く戦争体験①
N.K 1979年長崎生まれ。
大学、大学院修士修了後、高校英語教師を経て、現在雑誌編集者。
----------------------
三世。
日系三世、在日三世、ルパン三世など、
世の中には、いろいろな三世があるものだが、
私に何か「三世」的なものがあるとすれば、
「被爆三世」ということになるだろう。
こんなことは長崎では誰も言わない。
これはタブー、差別であるというよりも、
何も言わずとも、語らずとも、
長崎人なら大体誰もが「被爆二世」「被爆三世」であるからだ。
長崎の人というのは、「沈黙の民」であることが多い。
うちもまたそのような環境だった。
私の祖父も祖母も長崎生まれで、
祖父も祖母も戦争と原爆を経験している。
祖父も祖母も代々カトリックの家筋だった。
有事の際、国家はドサクサに紛れて、
不穏分子を抹殺しようとする。
左翼活動家、国家反逆者、芸術家などとともに、
鬼畜米英の門徒たる耶蘇教徒もその対象である。
その例に漏れず、カトリックの集落に生まれ育った祖父も、
アジア太平洋戦争中、激戦区フィリピンへ招集される。
そして、負傷し帰国。
しばらくの療養の後、
大日本帝国陸軍・関東軍防疫給水部本部に配属される。
そう、悪名高き731部隊である。
祖父は決してインテリ医師ではない。
田舎大工が末端の工作員として配属されたのだ。
731部隊……。
細菌戦・化学戦に用いる兵器を研究し、
時には「マルタ」(中国人やロシア人の捕虜)を使った
人体実験をしたとも聞く。
この部隊のことを本で読む度に戦慄が走る。
あの穏やかで寡黙な祖父がそんなところにいたのか、と。
1945年7月、
その前線で勤務した祖父は肺を悪くし再び帰国。
細菌戦で使う兵器の研究に携わっていたのだから当然である。
粗末な名ばかりの貨物船で命からがら大阪に帰着し、
そこから遙かなる故郷を目指し、汽車で西へ西へ。
そしてようやく辿りついた故地で祖父を待っていたのは、
Fatman(太っちょ)と呼ばれる原子爆弾の炸裂だった。
しかし、祖父は生きた。
翌年、祖母と結婚。四人目の子として母が生まれる。
そして、昨年3月、息を引き取った。享年87歳。
これら一切のことを祖父は語らなかった。
生涯「沈黙の民」であり続けた。
子どもらのためにせっせと働いた。
そして、敵軍の宗徒であることをやめなかった。
この端緒なしに、
私は戦争について語ることはできないと思う。
(つづく)
大学、大学院修士修了後、高校英語教師を経て、現在雑誌編集者。
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三世。
日系三世、在日三世、ルパン三世など、
世の中には、いろいろな三世があるものだが、
私に何か「三世」的なものがあるとすれば、
「被爆三世」ということになるだろう。
こんなことは長崎では誰も言わない。
これはタブー、差別であるというよりも、
何も言わずとも、語らずとも、
長崎人なら大体誰もが「被爆二世」「被爆三世」であるからだ。
長崎の人というのは、「沈黙の民」であることが多い。
うちもまたそのような環境だった。
私の祖父も祖母も長崎生まれで、
祖父も祖母も戦争と原爆を経験している。
祖父も祖母も代々カトリックの家筋だった。
有事の際、国家はドサクサに紛れて、
不穏分子を抹殺しようとする。
左翼活動家、国家反逆者、芸術家などとともに、
鬼畜米英の門徒たる耶蘇教徒もその対象である。
その例に漏れず、カトリックの集落に生まれ育った祖父も、
アジア太平洋戦争中、激戦区フィリピンへ招集される。
そして、負傷し帰国。
しばらくの療養の後、
大日本帝国陸軍・関東軍防疫給水部本部に配属される。
そう、悪名高き731部隊である。
祖父は決してインテリ医師ではない。
田舎大工が末端の工作員として配属されたのだ。
731部隊……。
細菌戦・化学戦に用いる兵器を研究し、
時には「マルタ」(中国人やロシア人の捕虜)を使った
人体実験をしたとも聞く。
この部隊のことを本で読む度に戦慄が走る。
あの穏やかで寡黙な祖父がそんなところにいたのか、と。
1945年7月、
その前線で勤務した祖父は肺を悪くし再び帰国。
細菌戦で使う兵器の研究に携わっていたのだから当然である。
粗末な名ばかりの貨物船で命からがら大阪に帰着し、
そこから遙かなる故郷を目指し、汽車で西へ西へ。
そしてようやく辿りついた故地で祖父を待っていたのは、
Fatman(太っちょ)と呼ばれる原子爆弾の炸裂だった。
しかし、祖父は生きた。
翌年、祖母と結婚。四人目の子として母が生まれる。
そして、昨年3月、息を引き取った。享年87歳。
これら一切のことを祖父は語らなかった。
生涯「沈黙の民」であり続けた。
子どもらのためにせっせと働いた。
そして、敵軍の宗徒であることをやめなかった。
この端緒なしに、
私は戦争について語ることはできないと思う。
(つづく)
2010年6月22日火曜日
今週の立花先生⑩(2010.6.22)
やっと、二週連続の出席。
今日も密度の濃い時間でした。
ブログ更新の報告の後、
アウシュヴィッツ・フィールドワークのお話。
そりゃあ、行けるのであれば行きたいです。
月初は行きやすい時期ではありますが、
すべて生ものである仕事が許すかどうかです。
7/7がひとまずのリミットのよう。
その後は、
①戦争体験者の声収集班(山崎さん)、
②戦争体験者の声収集班(木村さん)、
③(a)立花先生ご一家インタビュー/
(b)立花先生父上の小説データ入力班、
に分かれてのミーティング。
しばらくお休みしていて未編入の私は、
強制的に③班に編入。
しかし、これがなかなかアツい!
(a)立花先生ご一家インタビューの仕事とは、
すでにインタビューされたもののテープおこし、
内容は、戦争体験についてのものです。
(b)立花先生父上の小説データ入力の仕事とは、
お父上が書かれたといわれる、
敗戦後北京からの引き揚げの様子を描いた私小説を、
原稿からデータ入力化していく仕事です。
どちらも普段やっているような仕事……。
それを周りの方はプロと言います(笑)
長崎でのミッションスクールの仕事に決別し、
渡中し、北京で師範学校の教師をした父・経雄さんが、
どのような思いで、北京で敗戦を迎えたか、
敗戦後の北京での日本人の様子はどのようであったか、
これは史料的価値すらあり、
一読者として大変関心を持たずにはいられないものです。
そうした経緯を持っておられ、
戦後『週刊読書人』を創刊し、
無教会・湖北聖書集会の主催を長年なされ、
そのような私小説を遺していた、という
戦後知識人としての経雄さん自身に大きな興味を抱きます。
今後の仕事が楽しみです。こうした仕事に携われることに感謝!
ご両親がキリスト教的色彩が濃い人だということを知ってこのゼミに臨みましたが、
立花先生自身が、ここまで戦中のミッションスクールや、
キリスト教に関心がある方だとはまったく知りませんでした。
今日の立花先生の一言。
「戦中の国家がミッションスクールに対してとった施策、
及び、ミッションスクールが国家に抗してとった行動を探ることは、
日本現代史の一端を探るにおいても重要である」
今日も密度の濃い時間でした。
ブログ更新の報告の後、
アウシュヴィッツ・フィールドワークのお話。
そりゃあ、行けるのであれば行きたいです。
月初は行きやすい時期ではありますが、
すべて生ものである仕事が許すかどうかです。
7/7がひとまずのリミットのよう。
その後は、
①戦争体験者の声収集班(山崎さん)、
②戦争体験者の声収集班(木村さん)、
③(a)立花先生ご一家インタビュー/
(b)立花先生父上の小説データ入力班、
に分かれてのミーティング。
しばらくお休みしていて未編入の私は、
強制的に③班に編入。
しかし、これがなかなかアツい!
(a)立花先生ご一家インタビューの仕事とは、
すでにインタビューされたもののテープおこし、
内容は、戦争体験についてのものです。
(b)立花先生父上の小説データ入力の仕事とは、
お父上が書かれたといわれる、
敗戦後北京からの引き揚げの様子を描いた私小説を、
原稿からデータ入力化していく仕事です。
どちらも普段やっているような仕事……。
それを周りの方はプロと言います(笑)
長崎でのミッションスクールの仕事に決別し、
渡中し、北京で師範学校の教師をした父・経雄さんが、
どのような思いで、北京で敗戦を迎えたか、
敗戦後の北京での日本人の様子はどのようであったか、
これは史料的価値すらあり、
一読者として大変関心を持たずにはいられないものです。
そうした経緯を持っておられ、
戦後『週刊読書人』を創刊し、
無教会・湖北聖書集会の主催を長年なされ、
そのような私小説を遺していた、という
戦後知識人としての経雄さん自身に大きな興味を抱きます。
今後の仕事が楽しみです。こうした仕事に携われることに感謝!
ご両親がキリスト教的色彩が濃い人だということを知ってこのゼミに臨みましたが、
立花先生自身が、ここまで戦中のミッションスクールや、
キリスト教に関心がある方だとはまったく知りませんでした。
今日の立花先生の一言。
「戦中の国家がミッションスクールに対してとった施策、
及び、ミッションスクールが国家に抗してとった行動を探ることは、
日本現代史の一端を探るにおいても重要である」
今週の立花先生⑨(2010.6.15)
久しぶりの立花ゼミです。
いつの間にか、内容が進んでいます 汗
今回は皆さんの「私の戦争体験」の回でした。
それぞれの立場、世代からの戦争観をご披露いただきました。
他にも、ゼミ生が先生の母上にインタビューされたようです。
無教会の信徒でいらした先生のお父上、橘経雄さんは、
昭和16年まで長崎のミッションスクール、活水女学校で教員をされ、
日見峠から市内よりの鳴滝に住まれていたそうです。
そんな折、長崎大学病院で橘隆志(立花隆)氏が誕生します。
戦時下における国家のキリスト教への弾圧により、
学校は教員への給与を削減せざるをえなくなり、
そのこともあり、意を決して中国に渡り、
昭和16年から20年まで、
北京師範学校の教員を務められたそうです。
この決断がなかったら、おそらく被爆していたでしょう。
これも、「歴史にifはない」のひとつ。
このエピソードには、大変関心があります。
今日の立花先生の一言。
「戦争は見る角度によって景色が違う」
「当時(戦時中)の日本人は、今何が起こっているか、
全く分かっていなかった」
「〈戦争の記憶〉はまもなく消える」
いつの間にか、内容が進んでいます 汗
今回は皆さんの「私の戦争体験」の回でした。
それぞれの立場、世代からの戦争観をご披露いただきました。
他にも、ゼミ生が先生の母上にインタビューされたようです。
無教会の信徒でいらした先生のお父上、橘経雄さんは、
昭和16年まで長崎のミッションスクール、活水女学校で教員をされ、
日見峠から市内よりの鳴滝に住まれていたそうです。
そんな折、長崎大学病院で橘隆志(立花隆)氏が誕生します。
戦時下における国家のキリスト教への弾圧により、
学校は教員への給与を削減せざるをえなくなり、
そのこともあり、意を決して中国に渡り、
昭和16年から20年まで、
北京師範学校の教員を務められたそうです。
この決断がなかったら、おそらく被爆していたでしょう。
これも、「歴史にifはない」のひとつ。
このエピソードには、大変関心があります。
今日の立花先生の一言。
「戦争は見る角度によって景色が違う」
「当時(戦時中)の日本人は、今何が起こっているか、
全く分かっていなかった」
「〈戦争の記憶〉はまもなく消える」
2010年6月3日木曜日
今週の立花先生④(2010.5.11)
メキシコから帰国後、初の立花ゼミ。
授業では、立花先生の母上君に
インタビューするという案が発出。
なんと行動力があるぜみだろうと思い、脱帽。
ゼミ後、急遽、飲み会に発展。
会場の中華料理屋では、
なんと先生の隣でした。
いろいろあることないこと話させていただきました。
先生は若者の生き方や持ち物、ライフスタイルにまで、
様々なことに関心をもたれます。
これが「知の巨人」たる所以でしょうか。
メキシコでのあれこれ、
グアダルーペ寺院での出来事など、
色々お話させていただきました。
素晴らしい一日でした。
授業では、立花先生の母上君に
インタビューするという案が発出。
なんと行動力があるぜみだろうと思い、脱帽。
ゼミ後、急遽、飲み会に発展。
会場の中華料理屋では、
なんと先生の隣でした。
いろいろあることないこと話させていただきました。
先生は若者の生き方や持ち物、ライフスタイルにまで、
様々なことに関心をもたれます。
これが「知の巨人」たる所以でしょうか。
メキシコでのあれこれ、
グアダルーペ寺院での出来事など、
色々お話させていただきました。
素晴らしい一日でした。
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